尼子経久が生まれたのは応仁の乱の9年前である。応仁の乱がおき出雲も対抗する国人たちが蜂起した。このとき尼子氏は守護である京極氏により出雲守護代に任命されているにすぎなかった。父・清定は蜂起する国人たちに勝利し出雲を守りきった。清定の死後、後を継いだ経久は出雲の半国を得るまでになっていた。しかし出雲守護である京極氏は力をつける経久を快く思わず、ついに幕命により出雲守護代としての地位や権力を剥奪され追放された。
その後経久は月山富田城の奪回のため兵を集めた。さらに城内で元旦を祝う芸能者たちを味方につけて城内へ入り込み、城内から火を放ち奇襲をかけ、ついに月山富田城の奪回に成功した。このとき経久は29歳であった。このとき京極氏は出雲にいたがもはや打つ手はなく、ここに月山富田城を拠点とした国内の統一戦が開始される。
経久はまず統一戦のはじめとして国人の三沢氏を標的とした。三沢氏は富田城に近く、また大領主であった。そのため謀略をもって三沢氏を攻略することにした。その方法は配下を敵にもぐりこませ時期がきたら寝返らせるというものであった。そのために配下の将が死罪にされるから逃げたように見せかけ、2年も待ち三沢氏に嘘の情報を教え攻めさせた。まんまと進軍してきた三沢氏を尼子軍は四方から挟み撃ちにし打ち破った。三沢氏は主力を失ったため降伏した。国人の最先鋒であった三沢氏が敗れたことを知り他の国人たちもその軍門に下ることを選んだ。
出雲をほぼ統一した経久の目は中国地方に向けられた。進軍してくる大内軍を迎え撃ち勝利し、順風満帆かのように思えた。しかし1518年、経久自ら嫡子政久を伴い出雲国内の城を攻めたとき武芸に優れ名将の呼び名が高い息子・政久が敵の放った矢によって咽喉を貫かれ陣中で26歳で没してしまった。怒った経久は城内の者をことごとく打ち滅ぼすよう命令した。尼子軍の猛攻のまえに城主ほか一族郎党は討たれたり自害して果てた。
政久の戦死を悲しむまもなく京にいた大大名大内義興が本国に帰還したことを知る。大内義興が分国の安定のため派遣した武田氏が寝返ったため毛利氏に武田氏の攻める城への救援を要請し、毛利氏が武田氏に勝利すると分国安定を自ら行うため帰国したのだ。中国地方の制覇を狙う経久と中国地方に本拠を置き、分国の回復と安定、さらに領土の拡大を狙う大内氏とは当然敵対した。そのため大内氏との合戦がたびたびあったが勝敗はつかなかった。京では大内氏が帰国したことにより将軍足利義稙は後ろ盾を失い四国へ落ち延び細川氏の後ろ盾がある足利義晴が後を継いだ。
尼子氏と大内氏は安芸で戦闘を繰り広げるようになっていた。ついに大内義興は2万5000の大軍を率いて尼子氏の支配する安芸の諸城の征服に乗り出した。2手に分かれ一気に安芸の征服に乗り出したため尼子・毛利連合軍との激しい攻防あったが尼子軍は大内義興の息子で大内義隆の初陣で士気が上がった大内軍に一陣、二陣、さらに三陣も敗れ去ってしまった。しかし毛利軍の突撃により一矢を報いることができた。大内義隆は退却したが義興率いる主力軍との合流により大内氏の優勢となる。さらに悪いことに毛利元就が尼子軍から大内軍へ鞍替えしたため安芸は大内氏の圧倒的優勢となってしまった。
しばらく大内軍の攻勢は続き防戦一方だったが九州地方の大友氏や小弍氏が大内氏の筑前に進軍したため北九州への出陣を考えたが大内義興が陣中で病気になりそのまま没してしまった。後を継いだ大内義隆は北九州討伐に向かい安芸の支配を一時あきらめる形となった。経久は当然安芸を攻めるはずであった。しかしこの好機に一大事が起こった。
尼子経久は家臣を大切にしているため親族を家臣と同等に扱う。経久の三男・興久が謀反を起こしたのはこのためだった。1532年興久が所領の増加を希望したため経久は他の所になら余分に増加してもいいと言った。ところが興久は経久の重臣の讒言であると疑い重臣を殺そうとした。そのため経久が興久を諌めたところ、子より家臣に味方するとは何事だと怒り、ついに叛旗をひるがえした。この謀叛は難なく鎮圧したが尼子家にとって痛恨のできごとだった。落ち延びた興久は舅を頼ったが、しばらくして災いが舅に及ばないようにと自害した。
1532年興久の謀叛から2ヵ月後、今度は隠岐で謀叛があり鎮圧したものの、1534年安芸では毛利軍に味方する者が出た。1535年には毛利軍が備後功略に動き出した。毛利軍は次々備後の城を落とした。また興久の舅もこのころ経久とのしこりを残していたため毛利家に寝返ってしまった。さらに毛利軍は尼子軍の安芸の拠点を攻撃した。大内義隆もこの戦いに援軍を送り城を攻撃させた。
1537年ついに経久は動き始めた。大軍を組織し安芸の拠点を救援しさらに安芸・備後へ進軍し毛利軍の城を次々攻略しさらに備中・美作まで進軍した。その攻勢に畿内では上洛してくるのではないかと本気で考えられたほどであったという。1538年、経久の命令は11カ国にまで届くようになっていた。11カ国の大大名という大仕事を成し遂げた尼子経久は孫の尼子詮久(晴久)に当主の座を譲り3年後83歳で死去した。